経理・中村さんの話
自分の名前を検索しても、何も出てこなかった夜のこと

会社員のうちから、いつか自分の名前で誰かの役に立ちたい。そう考えている方は少なくありません。MEDIA ORCHESTRA がよく出会うそんな思いをもとにした、経理の仕事を続けてきた中村さん(仮名)のストーリーです。
十五年目の、台所のテーブル
中村さんは、会社で経理の仕事を十五年続けてきました。数字の間違いを見つけるのが得意で、後輩からもよく相談される、頼りにされる存在です。
ただ、ここ数年、心のどこかでずっと考えていることがありました。いつか、会社の外でも自分の力を使いたい。とくに、帳簿のことで困っている小さなお店の役に立ちたい、と。
ある夜、子どもが寝たあとの台所のテーブルで、中村さんはふと、自分の名前を Google で検索してみました。
出てきたのは、同じ名前の知らない人のページばかりでした。いちばん上に出た AI の答えも、まったく別の人のことを説明していました。
「十五年もやってきたのに、外から見たら、わたしは何者でもないんだな」
少しだけ、笑ってしまいました。
検索する人の、その先にいるもの
次の日、昼休みに、同僚にその話をしました。副業でデザインの仕事をしている、少し年下の同僚です。
「今って、何か頼みたい人は、まず Google で検索するじゃないですか。で、いちばん上に AI の答えが出てきて、そこで名前が挙がった人に相談が行く。名前を知ってもらうには、どこかに言葉で書いておかないと始まらないんですよね」
「でも、わたしなんかが書いて、読む人いるかな」
「えらい先生みたいなことを書く必要はないと思いますよ。中村さんが毎日やってること、小さいお店の人から見たら、知りたいことだらけですよ」
中村さんは、その言葉をしばらく考えていました。
押し入れの奥の、母の帳簿
その週末、実家の片づけを手伝いに行ったときのことです。押し入れの奥から、古い大学ノートが何冊も出てきました。
母の字でした。
中村さんの母は、昔、小さな洋裁店を営んでいました。ノートには、布の仕入れ、お客さんからの代金、電気代が、細かい字でびっしり書きこまれていました。ところどころ、消しゴムで何度も消したあとがあり、「合わない」と小さく書かれたページもありました。
中村さんは、子どものころの夜を思い出しました。店を閉めたあと、台所で母が電卓をたたきながら、ため息をついていた姿。「お母さん、これ、よくわからないのよ」と笑っていた声。
「わたしが経理の仕事を選んだのは、たぶん、あの夜のせいだったんだ」
ノートを閉じたとき、胸の奥がじんわりと熱くなりました。あのころの母のような人を、少しでも楽にしたい。それが、ずっと言葉にできなかった、自分の本当の気持ちでした。
週に一回、名前を出して書いてみる
中村さんは、まず会社の就業規則を確かめ、会社の外で発信してよい範囲を確認しました。そのうえで、週に一回、自分の名前で短い文章を書き始めました。
テーマは、母のノートを思い出しながら決めました。
- 小さなお店が、帳簿でつまずきやすいところ
- 領収書をためこまないための、ちょっとした習慣
- 「合わない」ときに、まず確かめること
難しい言葉は使わず、あのころの母に話しかけるつもりで書きました。一本書くのに、最初は三時間もかかりました。読んでくれる人は、ほとんどいませんでした。
それでも、書くのをやめませんでした。自分の名前で検索すると、少しずつ、自分の書いた文章が出てくるようになりました。
「母が、あなたの文章を読んでいたんです」
書き始めて半年ほどたったころ、一通のメッセージが届きました。
「母が、小さな花屋をやっています。帳簿のことでずっと悩んでいて、検索していたら中村さんの文章にたどりつきました。母が『この人、わたしのことをわかってくれている気がする』と言っていて。一度、相談させていただけませんか」
中村さんは、読みながら少し泣いてしまいました。
まだ、会社を辞めたわけではありません。仕事がたくさん来ているわけでもありません。それでも、自分の名前が、はじめて誰かに届いたのです。あの台所の夜、何も出てこなかった自分の名前が。
中村さんは、特別なことを書いたわけではありません。母の帳簿を思い出しながら、毎日の仕事を言葉にしただけでした。その小さな一歩が、ちゃんと誰かに届いていました。
当たり前にしてきたことほど、言葉にすると、届く人がいます。

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